17 知紘はなんとなくだけど、近頃美鈴の纏う空気感が変わったように 思うのだった。何気に感じた違和感……なんだぁ? 真知子にばかり気を取られていたのですぐには分からずにいた。だが、いつもと何かが違っているような気がするのだ。そして、鈍感な自分はその違和感の正体である『いってらっしゃい』との 見送りが無くなったことに、何かがおかしいと感じた日から2日過ぎて 気が付いた。 美鈴は俺が会社に行くとき、これまでなら必ず玄関ホールまで出てきて 『いってらっしゃい』と言って見送くってくれていた。改めて翌日、意識して確認してみた。リビングから聞こえる『いってらっしゃい』の声掛けに、3日目の朝、 今度こそ違和感の正体にはっきりと気付いた。妻が見送りに出てこなくなったことに。 今朝の『いってらっしゃい』の声は明るいものだったが、今まで 自分に掛けられていたような愛の籠ったものではなかった。それとともに、よくよく振り返ってみれば昨夜の夕飯の献立も 今朝の朝食の中身も、心が籠ってないように感じられるものだった。いつもの手作りだったはずのサバの味噌煮は、シンクに缶詰の缶が 転がっていて……なんとサバ味噌煮の缶だった。なんだかいつもと少し旨味がちがうなぁ~などと思っていたらこ のザマだった。昨夜の味噌汁ももしかするとインスタントだったかもしれない。 朝、今まで目にしたことのないインスタントみそ汁の袋が置いてあったから。 知紘がそういったことに気付いた日から以後、昔のように手作りされた献立は ほぼほぼ食卓に上がることはなくなってしまった。
18 美鈴より5才ほど若い田中真知子に夢中で何も見えてなかった知紘が、 ここにきてようやく妻の言動に変化がみられることに気付いた頃…… 美鈴は1年前に会ったきりの高校時代の友人、原口絵里に会っていた。現在美鈴も絵里も29才。絵里は今も独身で、26才~28才までの2年間一つ年下の男性と 付き合っていた。 相手の男性は頭のよい穏やかな人だと話してくれたことがある。28才になってから絵里は、その彼に何度か30才になるまでには子供が ほしいなどと、結婚を促すような話をほのめかしてたりしていたのだが、 彼からはその都度結婚話をはぐらかされ、結婚話は頓挫しているのだと…… 昨年会った時に、美鈴はここまでの話を聞いていた。 自分は絵里が苦悩していた頃、結婚してからずっとラブラブの知紘との 幸せな生活に浸っていて、今一つ気の毒だとは思うものの、彼女の件 《不幸話》に対して他人事でしかなかった。 その後、絵里の婚活はどうなっているのだろう。恋人と破局したとは聞いていないので、おそらく結婚の話をひとまず 先延ばしにして付き合っているのだろう。 絵里の恋人との結婚について、そんなふうに考えつつ、あぁ~私は前回絵里と 会った時からなんて自分の生活が180度変わってしまったのだろうと思うに つけ、去年の12月に戻りたいと思ってしまうのだった。 今日は絵里の恋人との話を聞いたあとで、少しは自分の痛い話も聞いて もらおうかな、などと思いながら美鈴は待ち合わせ場所に向かった。 絵里とは行きつけのカフェで15時から待ち合わせをした。 私のほうが先に着き、席を取り待っていた。 スマホでYoutubeの画面の中の文字を追いながら時々、入り口方向に 目を向けまだ絵里が来てないことを確認。 そのあとも何度か入り口方向を見てYoutubeの文字に目を落とす。そしてまた入り口に……と顔を上げると、目の前に笑顔の絵里の姿があった。
19「ごめんね、お待たせ~」「大丈夫よんっ」「わっ、美鈴痩せたね~。幸せ細りなんて羨ましい限り」「そんなこともないけど……」「何年振り?」「1年振りになるのかな」 久しぶりに会う絵里の表情は殊の外明るいものだった。「それにしても暑いよね」 そう言って椅子に座った絵里は私の飲み物に視線を向けると……。「あっ、私も美鈴と同《おんな》じのにしよう」 そう言うとアイスオーレを注文した。 「絵里、雰囲気変わったね」「でしょ?」否定しないんだ。彼とはその後上手くいってるんだ? と訊いてみたい ところだけど、ひとまず私は堪えた。「うん、明るくなっていい感じよ」「去年会った時はかなり落ち込んでたからね。 早速っていうか、あの彼との話の続きなんだけど……」 「何か進展あった?」「それが……」 そう言うと絵里は息を大きく吸ってゆっくりと吐いた。 「2~3回だったかな、それとなく結婚のことを考えてくれないかな、 みたいな話を持ち出したのは。あぁ、ここまでの話は前回もしてたよね」 「うん、はぐらかされてばかりって聞いてたね」「彼の態度はどういうところから来てるんだろうってずっと考えてたの。 結婚の話題が出るたびに有耶無耶にする態度……って。 いろいろな理由が絡みあってるんだとしても、一番根っこにあるのは私なら、待たせておけるっていう彼の中にある自信っていうのかな。 それか最悪、彼の結婚適齢期ギリギリまで私を待たせている間にもっと良い 女性が現れたら乗り換えるっていう可能性を潜在的に持っているかもしれないって……いうことなのかな、とか。 まぁあれから、いろいろ分析してみたんだけど」「……」「言い方は悪いけど、私の存在なんてその程度で、ある意味舐められてるんだなっていうところに辿り着き……そしたらあんなに彼に対して結婚しようよって思ってた気持ちがス―っと引いていったのよね」 「そうね、話し合いの土俵にも乗ってこないというのは酷いよね。 誠意がないかな」「それでね、彼に期待するのは止めて婚活でも始めてみようかなんて考えて、真剣にどこかの結婚相談所に申し込みしてみようかといろいろ探してた時に……」 「……」
20 「その頃、ちょうど会社が推奨する勉強会に参加してたんだけど、同じように参加してきた男性と話す機会があって意気投合したのよね。それで食事を何度か一緒にするようになって、仕事に対してすごく熱心な人でね、話してると私も刺激受けたり、趣味の話や雑談なんかも話が合ってどんどん惹かれていったの」「きゃあ~、絵里ちゃん、まさかのまさかの恋バナになってくの?」「食事して3度目に交際を申し込まれたの」絵里はその彼から……ちゃんと結婚のことを考えてのことだから真剣に考えてくれないだろうかと、熱烈なアプローチを受けることになったそうな。友人の恋バナだというのに、聞いてるだけで私もテンション上がってウキウキ気分になる。自分のことでもないのに、ほんとっ、ドキドキから始まる恋バナっていつ聞いてもテンションあがるぅ~。「それで、そのあとどうなったの?」「その男性《ひと》川上さんっていうんだけど、川上さんには少し待っててもらって、付き合ってる彼と別れてから返事したの」「私なんて、そういうシチュエーション経験したことないから、どうなったのかすごく気になるー」「私だって振られたことはあっても断るなんて初めてのことでどうしようかと思ったわ。電話でとも思ったけど彼の私物がまだ私の部屋にあったしね。それも返さなきゃだし、話し合いで切れるような男性《ひと》でもないので会って話したの」「結婚についての話はしたの?」「もう少し先で考えてたって言ってた。でも私が話を向けた時には何も言ってくれなかったのだから、本当かどうかなんて分かんないわ」「そうだよね。それで別れ話はスムーズにいった?」「うん、私たちの出会いの時の話とか、一緒に旅行した時の話なんかして穏やかに別れたの。縁がなかったよねって」「縁がなかったって、よく言うわよね。自分が縁をぶち壊しといてさ」
21 「でさ、実はそのあとがあったの……」「分かった、やっぱりやり直そうってやつ」「ビンゴ! 『今から結婚申し込んだら別れないで自分との結婚を考えてくれるのか』って。 電話掛かってきた」 「すごい、ドラマみたい」 「私ね、ちっとも嬉しく感じなかったし、心も動かなかった。 もうほとほと彼に冷め切ってたんだろうね。自分でも驚くくらい冷めてた」 「そっか。絵里が別れを切り出してから結婚の話を出してきたのかー」「婚活が上手くいかずに悶々としていたら、どうだったかなっていうのは 考えないでもないけど、所詮タラればの話をしてもしようがないもんね」「そうだよね。それでその川上さんとはその後どうなったの?」「お蔭さまで、順調に交際が続いて、お互いいい年だから結婚急ごうってことで 12月に挙式することが決まってるの。 実はね、入籍は済ませていて今は半同棲中なの」 「すごいね。前の彼とはなかなか結婚までいかなかったのに~」「そうなの。自分でもびっくり、こんなにとんとん拍子に物事が運ぶなんて。 去年の今頃は、どうして剛《つよし》は結婚の話になるとスルーするんだ ろうってナーバスになってたでしょ? 1年後に結婚してるよって過去の 自分に教えてやりたいわ、全く。ふふっ」 「おめでとう、絵里ちゃん。ほんとによかった」 私はこの日、とうとう自分の話はできずじまいで絵里と別れた。不幸な人間が1人減ってよかったよ。 1人増えたからプラマイゼロだけどさ。 あーあ、絵里ちゃんもついに人妻だね。私は……。 綺羅々と初めて会った日からひと月が経っている。絵里の幸せな話を聞いて私は綺羅々に会いたいと切実に思う。 人恋しくなっちゃったかな?
22 綺羅々と美鈴は元々金星人でカップルだった。たまたま地球を訪れた折に、人がどのようにして産まれ落ちるのかに興味を持ち、見学していた時のことだった。ふたりは人が産まれ落ちるため天界で順番待ちしている魂たちに混じり、その様子を見ていた。小さな天使たちがそれぞれ指示役の天使から、あなたはここから行きなさい、あなたはそっちから行きなさい、というように言われ、各々長い滑り台を嬉しそうに滑っていく姿が見えた。見ているうちに見物していた美鈴はよろけてしまい滑っていくはずの天使の前に転がり、そのまま自分の意志に反してその子が滑る前に長~い滑り台の上を転がるようにして下界へと滑り落ち、すなわち現在の美鈴の母親である人のお腹へと着床してしまった。こんなふうにして両片想いの綺羅々と美鈴とは地球ではぐれてしまった。そのため、綺羅々は美鈴が地球での一生を終えたら迎えにいこうとずっと見守っていたのだが、幸せに暮らしているはずの美鈴が悲しみに暮れているのを知り、接触したのだった。金星人の時も美しかったが、人間に生まれ変わった美鈴も美しい女性へと成長を遂げていた。しばらくぶりに会う美鈴に……慰めの言葉と共に思わず抱きしめたくなったが、彼女を驚かせパニックに陥らせてはいけないと、なんとか自重する綺羅々だった。『美鈴、僕がこの先はサポートするから……頑張れっ』フォローする気満々の綺羅々なのだが、あれからひと月経つが美鈴からの呼びかけは今のところなく、なんだか寂しい。幸せいっぱいの友人の話を聞かされて久しぶりに綺羅々に会いたいと思う美鈴と、悲しい気持ちでいる美鈴をサポートしたいと考えているのに一向に連絡が来ないことに焦れている綺羅々。そんなふたりの気持ちが必然のようにクロスし、スパークする瞬間が……。
23『綺羅々……会いたい。私のところへ来て』キター、美鈴からの要請が……。美鈴からの会いたいというメッセージを受け取り駆けつけたのは、前回と同じ場所だった。俺は彼女を驚かせないように、彼女の後ろにある椅子に座り声を出して存在を教えた。「美鈴さん、お久しぶりです。僕はあなたの後ろにいます。連絡を待ってましたよ」彼女はゆっくりと後ろに向き直し、破顔した。「ほんとに、綺羅々さんだー。うれしいっ。来てくれてありがとうございます」「以前よりお元気そうで何よりです」決して慰めるためにオオバ―な物言いをしたわけではなく、ほんとに目の前の彼女は、前回会った時のような負の感情がほぼなくなっており、肌の色艶も美しく、何より目に力が宿っていた。俺は半歩進んで彼女の隣に座り直した。「会わなかった間に何か、心境の変化でもあったのですか?」「ありました……。あなたに励ましてもらって元気が出ました。そして元気が出ると前向きな思考ができるようになって。この1か月自分にできる範囲でポディティブに過ごしました。そしたら……」「そしたら?」「これからどうしたいのか、どうすればいいのか、そんな先のことまで見えてきたの」「よかった。それを聞いて安心しました」「ご心配おかけしてすみません」「いえいえ……その見えてきたことを行動に移したりする時に何かお手伝いできることがあれば遠慮なく言ってください」「ありがとうございます。もう~、そんな素敵なこと申し出てくれる人なんて、綺羅々さんしかいません。綺羅々さん、やさし過ぎますっ」俺の申し出に美鈴さんが半分涙声になっているのを見て《聞いて》思わずハグしてしまった。「驚かないでじっとしてて、ハグだけだから」そう囁いて俺は隣に座る彼女を肩越しに緩く両腕を回した。「これ、応援のハグ……。1・2・3」数えてから、彼女にお願いをした。「目を瞑っててね」と。それから俺はそっと彼女から離れた。 彼女はちゃんと目を閉じてくれていた。良かった。恋人同士でもなく外国人でもなくのハグはたぶん、お互い恥ずかしいものがあると思うから。「何か手伝うことがあったら、いつでも僕を呼んで。じゃあ、また」そう伝えて、今日のところは彼女の前から早々に消えることにした。
24 彼女はちゃんと目を閉じてくれていた。良かった。恋人同士でもなく外国人でもなくのハグはたぶん、お互い 恥ずかしいものがあると思うから。 「何か手伝うことがあったら、いつでも僕を呼んで。じゃあ、また」そう伝えて、今日のところは彼女の前から早々に消えることにした。 『綺羅々……』 一瞬の温もりを残して目の前から消えてしまった人。 彼はやさしい男性《ひと》だから……だから、可哀そうに思ってハグしてくれただけなのよ。 他に何の意味もないことなのよ、彼にとってはね。 まだ二度しか会ってない相手からハグされ、私は戸惑いを隠せなかった。 彼のハグには性的な意味はなく、慈愛のハグだと感じられた。 心が弱っている時に言動で慰められるというのは、グッとくるものがある。 それにしても、彼の引き際の良さには感心する。お陰で顔が赤くなったのを見られずに済み、ほっとしたのも本当だけれど、 折角会えたというのに一緒にいられた時間があっという間で残念な気持ちも ある。 次会える時は、もう少し話がしてみたいな。 このあと、美鈴は綺羅々のことに思いを馳せながら、森林植物園の中を さまざまな木や花を愛でながらゆっくりと散策し、そしておひとり様で カフェに入りお茶を飲んでから帰路についた。おひとり様でも心細さはなく、心は凪いでいた。自分を案じてくれている男性《ひと》がいることを知っているから。
93 「振られたな……」奈羅のことが好きだったと告白したのに、そこは完全スルーされ稀良は 落ち込んだ。 しばらく気持ちを落ち着けるために部屋に留まったが、そのあと奈羅に 続いて稀良も部屋を後にした。 ◇ ◇ ◇ ◇稀良には翌日からまた、研究漬けの日々が待っていた。 一日を終え、働き疲れ軽い疲労を抱えた稀良が白衣を脱ぎ捨ててドームの 長い廊下を歩いていると、顔馴染の摩弥《♀》に声を掛けられた。「調子はどう? なんかオーラが暗いよね」「分かってるなら訊くな」「落ち込まない、落ち込まない。今度あたしがデートしたげるからさ」「あー、ありがとさん」 「何奢ってもらうか考えとく」「おう」 軽い遣り取りをしているうちに2人はドームの外に出ていた。前方には彼ら2人の位置から5・6m先に奈羅が立っていて、明らかに 稀良を待っていたふうで、稀良に視線を向けているのが見てとれた。 「あらあら、もしかしてあの人が落ち込んでる原因? じゃぁまっ、あたしはお邪魔虫にならないよう消えるわ。またねー」「あぁ、また」 稀良に手を振り離れて行く女と稀良を、奈羅は目をそらさずじっと 見つめていた。 そんな奈羅の元へ稀良が歩いて来て声を掛ける。 「俺のこと、待ってた?」「うん……」 「フ~ン。それじゃあさ、これからデートでもする?」「うん」らしくなく、乙女のように俯いて奈羅が答えた。ふたりは肩を並べ夕暮れの中、恋人たちや友達同士と、人々が賑わう街中へと 消えて行った。 ****綺羅々の懸念していたことは現実となり、奈羅に復讐するはずが何たること……。 綺羅々は稀良と奈羅の恋のキューピットになってしまったのだった。 ―――― お ―― し ―― ま ―― い ――――
92 「おねがい、ほしいの……」この短いダイアローグ《DIALOGUE》が二人の合意となった。たわわでまだ瑞々しい魅力的な乳房にはただの一度も触れないまま、尻フェチの稀良は奈羅と結合に至る。ここで稀良は綺羅々のまま退場するのがいいだろうと考え、しばらくの間、彼女との快感の余韻に浸り、そのあと身体から離れようとした。だが、奈羅の動きの方が早かった。くるりと身体をを反転させたかとおもうと稀良を下にして、彼にキスの雨を降らせ始めたのだった。その内、稀良の胸や腹にもやさしい愛撫をしかけてきた。それでまたまた稀良のモノに元気が漲り《戻り》、今度は正常位でもう一戦、彼らは本能のまま快楽の中へと身を投じていった。大好きで長い間片想いをしてきた綺羅々と二度も想いを交わすことができた奈羅は幸せだった。「綺羅々、ずっと好きだった。だから、今あなたと一緒にいるのがまだ夢みたいよ」奈羅は自分の告白に無言のままでいる隣に横たわる男に視線をやる。男はベッドの上、上半身を起こした。その髪型とシルエットから奈羅はその人物が綺羅々でないことを悟り、愕然とする。「残念だけど、俺は綺羅々じゃない」「どうして?」「言っとくけど君がしてほしいって、ほしがったんだからね。そこははっきりさせとく。俺は前から奈羅のことが好きだったからうれしかったよ。俺たち体の相性もいいみたいだし、付き合わない?」頭の中真っ白で混乱しかない奈羅は、素早く下着を付け服を着る。稀良も話しかけながら帰り支度をした。互いが衣類を身に着けたあとで、奈羅はもう一度稀良に詰問した。確かに自分は綺羅々と一緒にこの部屋へ入ったはずなのに。いくら問い詰めても綺羅々の方にどうしても帰らないといけない用事があったため、綺羅々が|自分《奈羅》のことを稀良に託して先に帰ったのだと言う。自分は酔っぱらってはいたけれど、しばらくシャワーに入るという話もしていて、絶対当初この部屋にいたのは綺羅々だったはず。だけど、酔っていただけに100%の自信が持てない自分がいた。よもや、自分がした同じような手口で復讐されるなどと思いつきもしなかった奈羅は、綺羅々を責めるという発想は出てこなかった。このまま稀良といても埒があかないと考えた奈羅は、部屋に稀良を残したまま部屋を後にした。
91 あまりの気持ち良さに奈羅は現世からどこか別の所へとしばらくの間、 意識を飛ばしてしまっていた。 意識が戻ったのは身体に別の快感を覚えたからだった。この時はまだうつ伏せ寝のままだったのだが、首筋から両肩、背中、腰と その辺りを行きつ戻りつ絶妙な力加減でマッサージを施していたはずの手の 動きに変化が あり、眠たくなるような心地良さから肉体的快感、性的感覚 を伴うものへと変わっていったのである。 奈羅は今の状況に歓喜した。ずっと綺羅々と性的関係になりステディな関係になりたいと思っていたからだ。 気付くと先程まで腰から下を纏っていたバスタオルが取り払われていた。綺羅々とバトンタッチした稀良が、しばらくの間は綺羅々と同じように マッサージしていたのだが、どうしてもバスタオルの下にある奈羅の下半身 を見てみたいという欲求に逆らえず、早々にバスタオルを取っ払って しまったのだ。 目の前に現れた形の良いぷるるんとした双丘に目を奪われ、 稀良は一瞬固まってしまった。 尻に釘付けになっている眼球に身体中の熱い血液が集中し 漲ってくるのが分かった。 もう今や、稀良の暴走しようとする勢いは理性では止められないほどに 高まっていて、手は豊満な美しい双丘を這っていた。 しばらく撫でまわしたあと、できるなら最初から触れてみたかった双丘の なだらかな斜面を下りきった所にある秘密の場所へと指を滑り込ませてい った。そして指の腹で秘所の周辺を撫で愛でていった。その時、奈羅の喘ぐような切ない吐息が漏れるのを稀良は 聞き逃さなかった。急いで稀良は身に纏っていた衣類を脱ぎ捨てマッパとなり、彼女の 上《背中》へと胸、腹とそれぞれをぴったりとくっつけた。そして首筋から肩、背中へと愛し気に愛撫を施していった。そして身体のあちこちに触れながら、一番施したかった場所へと口元を 近付けた。そこは双丘にある割れ目の根本であり、ぎゅっと両手で広げたかと思うと、 そこから舌先で秘所を弄んだ。すると、それに比例して奈羅の喘ぎ声が途切れることなく続いた。一応、稀良はジェントルマンなのでレイプ魔のようなことはしない。そんな稀良は奈羅の耳元で囁く。「していい?」すると奈羅が答えた。
90 (最終話-番外編へと続く)「シャワー終わったよ。どう、君もシャワー行けそう? それともこのまま朝までゆっくり寝とく?」 「私も行くわ。折角綺羅々との時間ができたんだもの。 朝までただ寝てるなんて有り得ない。待って、私もシャワー浴びてくる」 「急がなくていいよ。ゆっくりしておいで」 ◇ ◇ ◇ ◇「お待たせ……」「こっちに来て」俺はまだ足元のふらついている奈羅を抱き寄せる。 彼女の力が6割方抜けた感じだ。「まだ体がシャンとしてないだろ? うつ伏せにそのまま横になって。 マッサージして身体をほぐしてあげるから」「ありがと。綺羅々ってやさしいんだね」 自分がコナを掛けても冷たい反応しか返してこなかった綺羅々が部屋を とってくれて、その上抱かれる前にマッサージまでしてくれるだなんて 奈羅は幸せ過ぎて夢心地だった。 今夜のひと時が終わってもまだまだこの先も綺羅々との幸せな時間があり、 2人の未来があるのだ。 この時、奈羅は女の幸せを存分に味わっていた。 それを知ってか知らでか、綺羅々の手によって部屋の明かりが最小限に 落とされ、濃密な部屋の中、淫猥な空気が流れ始めるのだった。綺羅々は奈羅の巻かれただけのバスタオルを背中越しに腰の辺りまで ずり落とし、丁寧なマッサージを施し始めた。そして15分経った頃、後ろに控えていた稀良と絶妙なタイミングで 入れ替わった。相手は酔っている上にマッサージの施術で全く気付いていないようである。綺羅々は稀良に親指を立て、ゆっくりと静かにその場から立ち去った。 『くだらない方法だけど、仇はとったよ薔薇』 綺羅々は今いるラボ《研究所》は辞めて別の場所を探すつもりでいた。 心機一転、研究もプライベートも一から立て直そう。そう心に誓い、いろいろあったハプニングに別れを告げ、 夜明け前の人通りの少ない静謐な空気の中へと溶け込んでいった。
89 「わぁ~、あたし、どうしよう。酔っぱらってきちゃったー。 もう飲めないよ。私の代わりに綺羅々飲んで」 「はいはい、何言っちゃってるんだぁ~。天下の奈羅様が。 もっと飲めるだろ? はーい、どんどんいっちゃって」 「きついって」 そう言いながら俺がコップに酒を注ぐと奈羅は上目使いに俺のことを 見つめて、グイっと酒をあおった。 『いいぞー、その調子だ。ドンドンいけー。何も考えずガンガン飲めー』 見ていてもかなり酔っているのが分かる頃、俺は悲し気に言った。 「俺、薔薇のことが好きだったんだよね」「ん? 薔薇は……だけど薔薇はいなくなっちゃったんでしょ。 もう忘れなよ。あたしが慰めたげるからさ」 「そうだよね。ありがとーね、奈羅」「ふふん、どういたしまして」 『もうフラフラだな、コイツ』 「かなり酔ってるみたいだし、どこかで今夜は泊まって明日帰るとしますか」「はーい、さんせーい」 会計を済ませ予めとっておいたアンモデーション《宿泊施設》の 505号室に入室した。 入室すると同時に彼女はトイレに駆け込んだ。トイレの隣にある浴室を開けて確認すると稀良がちゃんと予定通り 待機していた。俺たちは改めてアイコンタクトを交わす。 「ごめんなさい、飲み過ぎたみたい。 でも、少しだけ横になったら大丈夫だと思うのよ」 「OK.じゃあその間、俺シャワーしとくよ。お先に」 俺は奈羅がベッドに横になるのを確認し、シャワールームに向かった。 実際にシャワーを浴びるのは稀良の方だ。 その間、俺はシャワールームの前で待つ。シャワーの音が止まるのを合図に上着をドア横のハンガーに掛け、 奈羅の横たわるベッドの側まで行く。
88 ―――――――― 攻略《罠》―――――――――俺はラボ内で奈羅を見つけ、飲みに行かないかと誘った。俺が真実を知っていて彼女を恨んでいるなんて知らない奈羅は、ノコノコとパブに1人でやって来た。「綺羅々が誘ってくれるなんて、あたしびっくりしちゃった。うれしー」「久しぶりだよね。あれから半年振りくらいかな。あんなことがあったのに俺、冷た過ぎたかも。何となく気になって連絡してみた。元気だった? もういいヤツ《彼》できた?」「う~ん、男友達は何人かできたけど、彼氏はまだかな」「じゃあ俺と酒飲んでも大丈夫かな」「勿論、誘ってくれてうれしかったわ」薔薇に酷い仕打ちをして悲しませた女が目の前にいる。俺は実りそうだった恋をこの女の罠でぶち壊された。今に見てろ! 俺の誘いをすっかり俺からの好意だと思い込んでいるこの勘違い女を驚かせてやろう。こんな女のこと……少しは驚くかもしれないが、さてどうだろうな。しばらくすれば落ち着きを取り戻し案外楽しむ感覚になるだけかもしれない。だが、俺に嵌められたかもしれないことはいつまでもこの女の心に残るだろ? それだけでもいいさ、何もしないよりは。つまらないことをしようとしている自覚は大いにある。俺は話題が途切れないようポツポツとだが奈羅に話し掛け、時間をかけた。何のって? 勿論、酒をどんどん勧めて酔い潰すためさ。
87その次にきた波が俺を襲う。 「稀良《ケラ》、俺は奈羅にお前を勧めて紹介できるほど親しくはない けど、お前の気持ちを成就させるための協力はできるかもしれない。 少々荒療治かもしれんが……」「どんな?」『――――――――――――――――――――』 あとは知らん、野となれ山となれ戦法だな。少々強硬手段だが上手くいくかも……もしくはいかないかも。 「いや、そんな強硬路線じゃなくてまずはデートに誘いたいっていうか、 交際の申し込みをだな……」 「俺だって親しくないんだから自分のことならいざ知らずお前の代弁とか 無理……」チャラ男のくせに目の前の男は度胸がなさそうだ。 「こうすればいいじゃないか。イタす前に了解取れば。 『いいのか?ってさ』 録音でもしとけば証拠になるだろ? それを聞けば彼女だってお前を責められないだろうし、ある意味合意 なんだからお前だって自責の念にかられることもないだろ? そのあとなら一度や二度断られてもアプローチしやすいだろ?」 「だけど一度パブで同席しただけの俺に一緒にその……部屋まで付いてきて くれるかな。自信ない」 「そこは大丈夫。部屋までは俺が連れてく。 そこのところで協力できるからこその俺の提案、この案はね」 「親しくないと言いながらそこは自信があるって……えっ? そういうこと?」 「はっ?」「彼女、お前とならアンモデーション《宿泊施設》に簡単に付いて来るって こと?」「う~ん、どうだろう簡単ではないかも。五分五分だな」 「ちょっ……ちょっと待ってくれ。 そういうことなら俺の出るまくねえじゃん」「いやいや、出てくれよ頼むよ、ぜひとも。俺、実は彼女から同じようなことされてさ、心臓止まりそうになったこと あるんだよ。だからお前の話聞いてリベンジしたくなったんだよなー。 俺もヤツ《奈羅》の心臓止めたいんだよっ。 そのせいで好きな彼女に失恋した」「恨んでるんだー」 「あーぁ、恨んでるね。 本当なら彼女Loveのお前じゃなくてどこぞの荒くれどもにその役を 任せたいくらい気分なんだよ」「あー、その役どうかどうか荒くれどもじゃなくて、俺に、この俺に してくだせー、綺羅々様」 今回のシナリオは前から考えていたわけじゃない。薔薇を失った絶望感が大き過ぎて、奈羅への復讐
86 あの日、どういうことで奈羅に付いて行ったのか? アンモデーション《宿泊施設》の同じ部屋で、まるで2人の間に何かあったかのような怪しい雰囲気の映像が無断で撮られ薔薇に送り付けられていたわけで、明らかに確信犯的犯行と思わざるを得ない。薔薇が地球上での生が終わるのを待ち、ようやく元の同じ場所同じ時間軸に連れ戻せると期待して次元と時空の狭間で待ち受け、そして望み通り薔薇を見つけることができたのに……行き違いがあったとはいえ金星でお互いが両片想いだったこともようやく確認し合えたというのに……なんと薔薇には自分との前世よりももっと遥か彼方より契りを交わしていた愛しき男がいたというではないか。探して追いかけて待って待ち続けた結果が、予想もしてなかった結果に綺羅々は男泣きをした。そして絶望に襲われた時、綺羅々の胸に憎悪とともに仄暗い感情が芽生えた。 ◇ ◇ ◇ ◇綺羅々は薔薇が金星からいなくなったしまった日から、地球上の時間軸で計るなら半年しか経っていないところへと戻った。バーの片隅で酒を飲んでいるところへ見知ったヤツ、稀良《ケラ》が隣に座った。久しぶりだな綺羅々。最近見かけなかったけど元気だった?……ってあんまり元気そうじゃないな。別の日にしたほうがいいかな。「いや、構わないさ。で、何?」「奈羅と少しくらい交流あったりする?」「あったらどうすんの?」「取り持ってもらえないかと思ってさ」腸煮えくりかえるほどの名前を耳にし、思わず綺羅々は平常心を失くすところだった。「で、いつから? 彼女と同じラボ《研究室》になって1年弱だろ」「いやさぁ、それがつい最近深夜に連れとパブに繰り出したらちょうど奈羅も友達と来ていて明け方まで相席して盛り上がったっていうか」「ふーん、それで?」「なんか、いいなぁ~って思ってさ。ただ何となく素面で誘うのって苦手なんだよな」「話が見えない……。俺に相談? 何の?」『交流あったりする?』の質問にあるともないとも答えられるはずもない綺羅々は、相手の意図するところを探ってみる。「あれから気になって、奈羅のこと」目の前のチャラ男はらしくない発言をする。目の下と首筋がほんのりと赤いじゃないか。本気なのか? それにしても奈羅の二文字を聞かされた俺はというと、吐き気がし
85「だけど、一緒には行けない。私ね、地球に産まれて永遠のパートナーがいることを知ったの。その人《夫》と長い長い気の遠くなるくらい長い時を経てまた巡り逢えて、その夫だった圭司さんが迎えに来ることになってるの。彼がね、今際の際『この世とあの世の狭間に行くことができたらそこで待っててほしい。必ず迎えに行くから』って言ったの。だから、私はここでずっと彼を待ってなきゃいけないの。綺羅々、私のことは忘れていい女性《ひと》見つけて」お互いの行き違いのあった気持ち、そして美鈴とは両片想いだったことの確認もできた。だけど、自分との出会いのあとで永遠のパートナーに出会ったという。このことが綺羅々にとっては、返す返すも悔しいことだった。綺羅々は思わず薔薇の腕を取り、再度自分の気持ちを伝えた。「僕との金星での一生を終えてからその人とまた再会すればいいんじゃない? その人はまた少しくらいなら待っててくれそうじゃない?」そう薔薇の気持ちに揺さぶりをかけてみるも彼女は首を縦に振らない。綺羅々が彼女のことを想い切れずに腕を放さないで佇んでいると……。1人の男《根本圭司》が薔薇の腕から綺羅々の手を振りほどくと「悪いね、彼女を俺に返して」と言い放ち、薔薇を抱きしめて言った。「待たせてごめん。心配したろ? 不安にさせてごめん」そうやって男は薔薇に謝りながら肩を抱き、綺羅々の前から立ち去った。自分だってどんなに薔薇を好きだっか。ずっと薔薇が人間としての一生を終えるのを待っていたのに。交際をして妻になってもらいたいと思っていたのに。こんな結末が待っていようとは……。思えば思うほどひたすらに奈羅のことが呪わしく、心の中で彼女への憎悪が膨らんでいくのを止められなかった。そして綺羅々は失意のうちに宇宙船に乗船し、金星へと戻って行くのだった。